大田区のものづくりを支えた世代の交代期と相続の現実
かつて「東洋のマンチェスター」と呼ばれ、日本の高度経済成長期を技術力で支えてきた東京都大田区。この街には、世界に誇る技術を持った町工場が数多く存在します。しかし2026年現在、その風景は大きな転換点を迎えています。
大田区の工場数は、ピーク時の約1万社から、現在では約3,500社へと激減しました。その背景にあるのは、経営者の高齢化です。経営者の平均年齢は70歳を超え、多くの工場主が「事業を次世代に引き継ぐか」、それとも「自分の代で幕を下ろすか(廃業)」という、非常に重い決断を迫られています。
もし、あなたが大田区で工場を営む親御さんを持つお子さん世代であれば、どうか「実家はただの古い工場だから、資産価値なんてないだろう」と軽く考えないでください。
その「ただの工場跡地」だと思っていた不動産が、相続発生と同時に、想定外の相続税や、見えない負債を招くリスクを孕んでいるからです。最悪の場合、相続によって個人の資産まで脅かされるケースさえあります。本記事では、2026年時点での大田区の不動産市況や、町工場特有のネットワークが抱える法的リスクについて、詳しく解説していきます。
2026年現在、大田区の土地評価額は激変している
高騰する工業地の評価額と相続税への影響
「うちは準工業地域にある小さな工場だし、土地の値段なんてたかが知れている」
もしそのように考えているとしたら、認識を改める必要があります。昨年のデータとなりますが、2025年の路線価(相続税評価額の基準となる価格)において、大田区の土地評価額は全体的に顕著な上昇を見せ、2026年の現在もその高水準な傾向は続いています。
統計を振り返ると、大田区内の住宅地はプラス6.9%、商業地はプラス7.6%の上昇を見せました。しかし、それ以上に上昇率が高かったのが「工業地」であり、プラス9.2%という高い伸び率を記録しています。
なぜ、工場の土地がこれほど値上がりしているのか
この背景には、大田区特有のエリア開発事情があります。羽田イノベーションシティの本格稼働や、羽田空港跡地第1ゾーンの整備などが進み、周辺エリアのポテンシャルが再評価されています。また、六郷や蒲田エリアにおいて、かつて工場が並んでいた「準工業地域」が、大規模なマンション用地として転用されるケースが定着していることも大きな要因です。
準工業地域は、工場だけでなく住宅や店舗も建てることができる地域です。デベロッパーから見れば、まとまった広さがある工場の敷地は、絶好のマンション開発用地となります。そのため、実態としては古い工場であっても、土地の評価額は「マンション用地」としての相場に引きずられ、高騰してしまっているのです。
基礎控除を超える相続税評価額のシミュレーション
これが具体的にどのような影響を及ぼすのか、簡単なシミュレーションをしてみましょう。相続税には「3,000万円 +(600万円 × 法定相続人の数)」という基礎控除があります。遺産総額がこの金額以下であれば、相続税はかかりません。
しかし、大田区の現在の地価水準を考慮すると、比較的小規模な工場であっても、このラインを容易に超えてしまう可能性があります。
【モデルケース:蒲田エリアの工場兼自宅】
敷地面積:40坪(約132平米)
建物:築40年の鉄骨造(1階工場、2階自宅)
相続人:子供2人(母は既に他界)
基礎控除額の計算:
3,000万円 +(600万円 × 2人)= 4,200万円
土地の評価額(概算):
近年の地価上昇を反映し、坪単価が150万円と評価された場合
40坪 × 150万円 = 6,000万円
結果:
土地だけで6,000万円となり、基礎控除の4,200万円を1,800万円もオーバーします。ここに預貯金や機械設備の評価額が加われば、さらに課税対象額は増え、数百万円単位の相続税を現金で納付する必要が出てきます。
「工場を売って税金を払えばいい」と考えるかもしれませんが、工場には機械があり、取引先があり、従業員がいる場合もあります。すぐに現金化できるとは限らないのが、事業用資産の難しいところです。
町工場特有の「見えない借金」連帯保証の恐怖
大田区のものづくりを支える「仲間回し」の功罪
大田区の製造業の強みは「仲間回し」と呼ばれるネットワークにあります。「旋盤はA社、メッキはB社、組み立てはC社」といったように、近隣の工場同士が専門技術を持ち寄り、一つの製品を作り上げる水平分業の仕組みです。この信頼関係こそが大田区ブランドの源泉ですが、相続の場面では、この深い結びつきがリスクとなることがあります。
それは、経営者同士が互いの融資の「連帯保証人」になっているケースです。昔からの義理人情で、「あいつが設備投資するなら俺が判子を押すよ」と、互いに保証人になり合っていることが、かつては頻繁に行われていました。
ある日突然、2,000万円の請求が届く事例
ここでは、実際に起こり得る事例を見てみましょう。
父親が亡くなり、長男が工場と自宅を相続しました。預金は少なかったものの、借金もなさそうだったので、単純承認(全ての財産と負債を引き継ぐこと)をして相続手続きを完了させました。工場は閉鎖し、機械も処分して一息ついた半年後のことです。
突然、銀行から通知が届きます。「お父様は、ご友人の〇〇製作所の連帯保証人になっていました。〇〇製作所が倒産し、融資の返済が滞ったため、保証人であるお父様の相続人であるあなたに、残債2,000万円の一括返済を求めます」
長男にとっては寝耳に水の話です。しかし、借用書や保証契約書に父親の実印が押されている以上、法的には逃れることが極めて困難になります。自分たちが借金をしたわけではないのに、父親の「付き合い」の結果として、相続人が巨額の負債を背負わされる。これが、町工場の相続における最大の落とし穴の一つです。
「3ヶ月」を過ぎると手遅れになる法的リスク
相続には「熟慮期間」という非常に重要な期限があります。相続人は、相続の開始(親の死亡)を知った時から3ヶ月以内に、以下の3つから態度を決めなければなりません。
| 単純承認 | プラスの財産もマイナスの借金もすべて引き継ぐ(手続きしなければ自動的にこれになります)。 |
|---|---|
| 相続放棄 | 財産も借金も一切引き継がない。 |
| 限定承認 | プラスの財産の範囲内でのみ、借金を返済する。 |
先ほどの事例のように、死後半年が経過してから借金が発覚した場合、すでに「3ヶ月」の期間を過ぎているため、原則として相続放棄はできません。特別な事情があれば裁判所に期間伸長を申し立てることも可能ですが、認められるハードルは決して低くありません。
「うちは借金なんてないはずだ」と思い込まず、亡くなった親が他人の保証人になっていないか、信用情報機関への開示請求や、銀行からの郵便物の徹底的な確認が必要です。
事業承継か、廃業か。店舗兼住宅の評価とコスト
「小規模宅地等の特例」の複雑な適用要件
町工場の多くは、1階が工場、2階が自宅という「店舗兼住宅(併用住宅)」の形態をとっています。この不動産を相続する際、土地の評価額を最大80%減額できる「小規模宅地等の特例」が使えるかどうかが、相続税額を大きく左右します。
しかし、この特例の適用は非常に複雑です。自宅部分には「特定居住用宅地等(330平米まで80%減額)」が適用できる可能性がありますが、工場部分には「特定事業用宅地等(400平米まで80%減額)」の要件を満たす必要があります。
ここで重要なのは、「相続後も事業を継続するかどうか」です。
もし、子供が事業を引き継ぎ、申告期限まで事業を継続して土地を保有していれば、工場部分についても80%減額が受けられます。しかし、「親が亡くなったので廃業し、アパートに建て替える」といった場合は、事業継続の要件を満たさないため、工場部分の80%減額が使えなくなる可能性が高くなります。
「事業を続けるか、畳むか」の判断は、経営だけでなく、税務上の特例適用可否にも直結し、納税額が数千万円単位で変わることもあるのです。
廃業にも多額のコストがかかる現実
「税金が高いなら、土地を売って精算しよう」と考える際にも注意が必要です。工場の廃業には、想像以上のコストがかかります。
【機械・設備の撤去費用】
大型のプレス機や旋盤などは、搬出するだけでも多額の重機費用や人件費がかかります。鉄くずとして売れる場合もありますが、搬出費の方が高くつくケースも珍しくありません。
【土壌汚染調査と浄化費用】
特に注意が必要なのが、メッキ加工や塗装、金属洗浄などを行っていた工場跡地です。特定有害物質を使用していた履歴がある場合、土地の売却時や建物の解体時に土壌汚染調査が義務付けられることがあります。
万が一、土壌汚染が見つかれば、その浄化費用は数百万円から、広範囲であれば数千万円に及ぶこともあります。「土地を売れば手元に現金が残る」と思っていたら、浄化費用で相殺され、手元にはほとんど残らなかった、あるいはマイナスになったという事例も、大田区の不動産取引現場では実際に耳にする話です。
空き家になった「元・工場」の活用と税金
放置された工場が招く「特定空き家」のリスク
相続はしたものの、事業は行わず、借り手もつかずに「がらんどうの土間」として放置されている元工場。こうした物件をそのままにしておくと、固定資産税の優遇措置が受けられなくなるリスクがあります。
自治体から「特定空き家」に認定されると、住宅用地の特例(固定資産税が6分の1になる措置)が解除され、税金が急増します。特に大田区は住宅密集地が多いため、倒壊の危険や衛生上の問題がある空き家に対する監視の目は厳しくなっています。
大田区ならではのリノベーション需要
一方で、ピンチはチャンスでもあります。2026年の現在、大田区では「町工場の雰囲気」を活かしたリノベーション需要が高まっています。天井が高く、土間があり、防音性が高い工場の構造は、クリエイターのアトリエや、カフェ、シェアオフィスとしてのポテンシャルを秘めています。
蒲田や羽田エリアを中心に、古い町工場をおしゃれな空間に再生させるプロジェクトも定着してきました。単に取り壊して更地にするのではなく、建物の「記憶」を残したまま賃貸物件として収益化することで、固定資産税や維持費を賄い、将来的な資産価値を維持する道もあります。
ただし、工場から店舗や事務所へ用途変更(コンバージョン)を行う際は、建築基準法の確認や、消防法の基準クリアなど、専門的な知識が必要です。安易なDIYではなく、建築士や税理士と相談しながら進めることが成功の鍵となります。
町工場の相続は「税理士・弁護士」のチーム戦が必要
大田区の町工場の相続は、一般的な家庭の相続とは全く異なる難しさがあります。不動産の評価、事業承継税制の適用、連帯保証債務の調査、そして土壌汚染リスク。これらは、個人の確定申告レベルの知識で対応できるものではありません。
税金計算だけなら税理士ですが、借金や保証人の問題には弁護士の介入が必要ですし、土地の活用には不動産の専門家が必要です。つまり、それぞれの専門家が連携した「チーム戦」で挑まなければ、大切な資産を守り抜くことは難しいのです。
親御さんが築き上げた歴史ある工場を、負の遺産にするのではなく、次世代への希望として引き継ぐために。あるいは、きれいに幕を引くために。早い段階から専門家に相談し、現状を把握することから始めてみてください。
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